自分の感受性くらい 茨木のりこ
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
*
この詩がなにかの拍子で回ってきたのは
出産から1年ちょっとくらいの、
どうしようもなく最悪に追い詰められていたときだった。
ぐさり、ぐさりと心に突き刺さって
心の中から血が吹き出したように感じた。
痛くて、痛くて、
私は部屋のカーテンを見ながら嗚咽したのを覚えている。
そんなこと言ったって!
そんなこと言ったって!
無理だよう!!!と
乾いたのは自分のせい・・
でも、でも
必死で、無我夢中でやってたら
気づいたときにはもうカラカラに干からびていたんだ。
なけなしの時間でマッサージに行こうが
水は一瞬でチュンといって蒸発していった。
そのときの私の心には、
余裕のなさと混乱、孤独感と自己嫌悪、
何かに裏切られたような大きな悲しみ。
ぽっかり空いた穴。
必要なのは「ばかものよ」の言葉じゃなく
温かな誰かの手だったし
休息だった。
間違いなく。
いま、
穴が塞がり
傷が癒えつつある中で
改めて読んだ時
この詩の中にある大きな愛が見えた。
「ばかものよ」を自分に言い、のりこさんもかつて泣いていたのかもしれない。
この詩は大きな愛のうたであり
差し伸べてくれていた温かな手だったのだと気づく。
*
そういう観点でみると、この詩は、読んだ人の魂の状態の
バロメーターになりうるのかもしれない。
もし、詩を読んで腹の底にグッと力が入ったなら、めちゃくちゃいい状態なんだと思う。そのままアクセル全開で突っ走ったらいい。
もし、ドキリとしたりハッとしたりしたら、これもすごくいい。前向きないい気付きだと思う。大きく息を吸って、気持ちをキリリとさせて、チャレンジを始められる。
もし、かつての私のように痛くて直視できないほどだったら。どうか、ああ知れてよかったと思ってほしい。あなたに必要なのは、癒しと休息。それだけだから、大丈夫。体と心が元気になったら、もう一度この詩を読んでみて。もう痛くないから。
今日のあなたの胸には、どんなふうに響きますか?